「良心」

意見は争われ、公正で公平な判断が下される。
公正で公平であったか否かはどう判断されたかによる。
定められた法と手続に忠実であったこと。
出てきた「物」のみに従ったこと。
情動の一切を排除したこと。
そして、判断に一切責任を負わないこと。
それらが守られた判断は社会的に「高く」評価される。

だが、人類の歴史を全体で考えたときはどうか。
その判断の意義が問われることもあるのではないか。
「安全」、「問題なし」とされた判断が多数有った。
その判断は、人知を超える実力により、真っ向否定された。
否応なしに、有無を謂わさず、突きつけられた。
そのことにつき、判断者は何ら責任を負わない。
責任を問われないからである。
なぜ。
彼らは、固より、自らの判断の無責任を保証されているから。
彼らのその判断に倫理はないから。
倫理に基づく判断は公正・公平が保証されないからである。

だが、仮に法的責任を負わないとしても、一切の責任がないのか。
社会的責任も無いのか。
道義的責任はどうか。
彼らの判断に守られた城塞を見てみよう。
それは、無惨な亡霊の如く、人々を恐怖に陥れている。
「カミ」を語りながら、人々を苦しめ、驕慢に浸った集団。
過去のそんな組織に劣らない不届きな集団となっていないか。
判断者は、今、過去の「行い」を省顧すべき時ではないのか。
信奉する「良心」が真の「良心」であったの否か。

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